すべてが半端

推しが曇って飯がうまい

努力賛美が嫌いなんだ

幼少期の好奇心で後々苦しくなるとは思ってなかった



私は昔ピアノをやっていたことがあった。幼稚園児の思いつきである。しかしそれも小学生の半ばに辛くなってしまった。同じ曲を一ヶ月やっても合格できなくなり、私はすっかりやる気を失った。楽譜を読む筆記問題をしている方がよっぽど楽しかった。

私は母に、もうピアノはやめたいと言った。しかし何故か辞めさせてもらえなかった。幼少期のきまぐれで始めたものに執着する母が理解できなかった。その後、会社の転勤を堺にようやくやめられたのである。こんなことがあったので私は努力を信仰することは嫌いだ。私のような能力のない人間は、何かをすることが無力感を得る結果になってしまうのである。それからというものの、私は何か好奇心があっても「ちゃんと出来るの」「続けられるの」「どうせ口だけ」と言われるようになった。それから上手くできないなら好きになる権利がないとか、揚げ足を取られかねないと思うことになったらしい。夫には人に執着しているとよく言われているが、物事にはそういう諦めがあったのかもしれない。

この努力の話は将棋のプロの話らしいが、プロとして勤めるほどになれるのは一部に限られているらしい。努力が報われた人間の影に報われなかった人間はたくさんいるのである。そういうことを頭に入れつつ、努力で自他の足を引っ張らない人間になりたい。

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