すべてが半端

推しが曇って飯がうまい

偶像の子と偶像の女

私は人脈においては大当たりか大はずれの二択の解釈になっている。有象無象以外にはそうなのだ。毒親育ち特有のゼロ百とか条件付きの愛からなる叶えられる人数制限からの諦めもあるかもしれないが、引っ越した先の近所の子とか、医者との巡り合わせを考えると酷いものが本当に多い。地方の傲慢なワンマン医師にばかり会ってしまったのが原因なのだろう。

しかし一番の不幸はあの母親との巡り合わせだと思う。私は女性であることよりも子供であることの方が重い枷のようになってしまった。母は内気なコンプレックス打破に私を利用しようとしてきたのだ。私は人を好きになることだけ期待されてしまったので、おかしな相手をすぐに避ける選択をするたびに否定されてきてしまったのである。私はグレーの位置には立てない。潔白であるか自暴自棄になるかの二択しか取れないのだ。

親から子供であることを期待されることには常にストレスを抱えてきたが、そのことと比べると男性から女性を期待されず、痴漢被害を受けることもなかったことに幸運を感じている。

私は自分がどうなったらいいかを考えて生きていたが、女性であるというのは本当にさじ加減が難しい。あまりにもやっていないと愛嬌がないと大人達には言われるし、やりすぎると今度は女子から可愛こぶってると言わる。可愛くなる努力と世がファッション誌を広めても、容姿に恵まれていなければ可愛いものを買おうと服を着ようと可愛いが生まれつき備わってる者には負けるし、滑稽だと思われてしまう。だから私は小学校でマスコット好きをやめ、ピンクや水色にも手を付けなくなっていった(母からは明るい色を着ろと文句を言われる)。

以前も単語だけ呟いたが、私は名誉男性の位置にはいると思う。
フェミニストになれなかった弱い女 - すべてが半端
しかし私が恐れたのは男性からの搾取よりも先に、同調を求める女性社会からの搾取だったように思う。ぶりっこと悪口を言われていた女性が突然のいじめを受けた時、ぞっとするものがあった。教室に書かれた大量の死ねの文字の強烈さは未だに忘れられない。人に好意以外で接するところを見ていないので、本当にぶりっこかはわからないが、女性として大きく出ると痛い目に合うのかと刻み込まれてしまった。悪口を言っていた人たちが犯人だと決めつけているわけではないが、誰からの悪意だったのか気になっている。